「善」てなに?
- toshiki tobo
- 2021年2月14日
- 読了時間: 3分
「『善』とはなんだろう?」
プラトンのイデア論とか
キリスト教的なより善く生きるとか
そういうことではなく単純に、
「いったい『善』とはなんなの?」
という疑問をみんなとシェアしたい。
コロナが蔓延し、早一年。
マスク装着はエチケットのひとつとして
世間に定着した。
皆が皆マスクを着けていることに
当初は違和感もあったが
最近は見慣れて、当たり前の光景になった。
だから、マスクを外している人や
着けていない人がいると
ちょっと気になったり、
時折「マスク警察」の気持ちになったりする。
あまり行き過ぎた気持ちの高揚はよくないなと
反省すべきところである。
でもちょっと待ったと言いたいのが歩きタバコだ。
「そのタバコ、絶対に路上に捨てるよね?」
そう思ってならない。
今日はよい天気だったこともあり
日中はだいぶ暖かかった。
マスクは正直暑苦しいとすら思う天気だった。
しかしマスクを未装着なうえに
歩きタバコはどうかと思う。
マスク装着の有効性はあまり感じられなくなったけど
エチケットとなった以上着けるべきだと思う。
別に他人に影響あろうががなかろうが、
下着を履くのと同じことだと思う。
(ちょっと違うか)
で、本題の歩きタバコ。
「それ誰が拾うと思ってるのか?」と思ってならない。
都内は知らないが、地元では子供が拾っていた。
ボランティア活動と称されたその尻ぬぐいは
子供がさせられていた。
「誰が一番ゴミを拾えるかな~?」という
うまい言葉にいざなわれ
当時小学生だった僕は必死にごみをかき集めた。
誰よりも頑張った自分を褒めてほしくて
夢中になって取り組んだ。
今思うとただのやりがい搾取だ。
喫煙は別に罪ではない。
ただそのタバコの処理は自分でしてほしい。
自分のケツは自分で拭けということだ。
こういう発言が、時折物議を醸し、
論点がずらされ、すり替えられ、
批評が自分に返ってくる。
で、最終的に「偽善者」のレッテルを張られるのである。
こういう時、漠然と、
「『善』とはなんだろう?」と思ったりする。
見え透いた目論見がある「善」は「偽善」だと思う。
だってそれは誰かを裏切ったり、
誰かの希望を搾取してしまうから。
寄付を偽善と言う人もいるが
それは絶対に違うと思う。
「偽善でやれるもんならやってみろ」と
思ったりなどする。
日本の社会はいつだって
冷笑主義や虚無主義が席巻している。
それは一種のジェラシーとも天邪鬼とも受け取れるけど
本質は、やり場のない
「怒り」と「不満」なんだと思う。
善いことが必ずしも評価され、
推奨されるとは限らない。
誰しもが大人になって痛いほど
思い知らされたことだろう。
そういうやるせなせが「怒り」や「不満」を
生み出しているのかもしれない。
では小さなころ学んだ道徳は何だったの?
学んだことに果たして意味はあったの?
それはわからない。
僕たちは今社会という名の大海原へ放り出され、
その在り方を試されている。
そこに答えはない。
だけどもこう在ることが善いことではないかと
何度も失敗を繰り返しながら進んでゆく。
曲がりなりにもいつか自分の選択が善いものであったと
思える日が来るといいな。
ちょっとパンクな記事だったので
パンクな犬の写真を載せておく。
今日は穏やかに日向ぼっこしていた。かわいい。
お粗末様でございました。

Comentarios